2014年1月4日土曜日

与田剛さんと野球留学

皆さんこんにちは。
本日の与田剛さんファンの気まぐれブログは、与田さんも経験した「野球留学」について。

「野球留学」という言葉にはっきりした定義はないようですが、日本のプロ野球球団によるMLBチームの春季キャンプやハワイのウインターリーグ等への選手派遣、あるいは選手個人による海外チームへの期間限定での参加を指していると思って良いでしょう。

ただ「留学」とはいえ、当地で思いのほか好成績を残したために、そのままMLBチームの一員としてメジャーデビューしてしまった選手がいます。日本人初のメジャーリーガー「マッシー」こと村上雅則投手は、南海ホークスからサンフランシスコ・ジャイアンツへの留学中に実力が認められ、ジャイアンツの一員となって1964年と翌65年の2シーズンをプレーしたのでした。

野球留学からメジャーデビューした日本人はもう一人、1997年、巨人からニューヨーク・メッツの春季キャンプに派遣されていた柏田貴史投手がいます。柏田もそのままメッツで1シーズンをプレーし、貴重な左のリリーフとして35試合に登板、3勝1敗の成績を残しています。

与田剛さんは、ロッテ在籍中に2A級のメンフィス・チックスに野球留学しました。成績は、9試合に登板して0勝0敗0セーブでしたが、被安打9、四死球8、自責点10で防御率11.74。残念ながら実力を発揮できなかったようですが、おそらくこのときの体験が、その後の与田さんのメジャーリーグ解説の仕事に活かされているのではないでしょうか。

オリックス時代のイチローもまた、メジャー移籍する2年前にシアトル・マリナーズのキャンプに2週間参加しています。これはメジャー挑戦を熱望していたイチローに「待った」をかけていた球団が、待たせる代わりにメジャーを多少でも体験させてやろうと派遣したと言われています。

与田さんが留学したのはロッテの提携先のサンディエゴ・パドレス傘下のマイナー球団でしたが、同じようにオリックスもマリナーズと提携しており、イチローはその縁での留学でした。実はこのような日本の球団とMLB球団との個別の提携契約は、外国人選手の獲得ルートを確保する目的でかなり以前からあったのです。

最近では、留学先としてメキシカンリーグやベネズエラのウインターリーグがあがることもあります。選手の成長の場として、また球団同士の国際交流の機会として、野球留学がもっとさかんになれば良いと思います。与田剛さんはどのような感想をお持ちか、聞いてみたいですね。


2013年12月31日火曜日

与田剛さんと1989年のプロ野球ドラフト会議

皆さんこんにちは。
本日の与田剛さんファンの気まぐれブログは、与田さんが中日から1位指名された1989年のプロ野球新人選択会議、いわゆるドラフト会議について。

この年のドラフト会議はプロ野球の歴史に残るといわれるほど、その後の一流選手を多数輩出しました。その代表が、日米で大旋風を巻き起こした野茂英雄投手。野茂には史上最多となる8球団が入札。くじ引きの結果近鉄バファローズが交渉権を獲得しました。

野茂が抜群の素材を持っており人気が集中することは事前から予想されていました。しかし他にも有力なアマチュア選手が目白押しで、どの球団も野茂に入札しなければ確実に有力な新人を一人は取れる状況でした。それだけに、各球団は「競合を恐れず野茂を取りに行く」か「確実に野茂以外を取りに行く」かで議論がなされたと言われます。このようなとき、監督は無理を押しても一番人気の選手を取りにいき、スカウトや球団社長など事務方は安全策を取ろうとする傾向があると井箟重慶元オリックス社長は著書で語っています。

さて、与田剛さんももちろん高評価を得ていた一人。当時NTT東京に所属していた与田さんは「在京球団しか契約しない」という情報があったため、中日ドラゴンズの「強行」指名に対して他球団の視線は冷ややかでした。しかし最終的に与田さんは中日と契約。投手出身の星野監督の「熱さ」に、与田さんも感じるところがあったのでしょうか。

そしてこの年のもう一つのドラマは、甲子園のアイドル・元木大介内野手の契約拒否でした。本人は巨人を熱望していたのですが、巨人の1位指名は大学生の大森剛一塁手。元木は野茂を外したダイエー(現ソフトバンク)に指名されたものの契約せず、一年の浪人生活の末に翌年の巨人の指名を待つことになります。

1989年の主なドラフト指名選手は次の通りです(球団名は当時)。

巨人    1位 大森剛(慶応大)      3位 吉岡雄二(帝京高)
広島    1位 佐々岡真司(NTT中国) 4位 前田智徳(熊本工高)
中日    1位 与田剛(NTT東京)    6位 種田仁(上宮高)
ヤクルト  1位 西村龍次(ヤマハ)     2位 古田敦也(トヨタ自動車)
阪神    1位 葛西稔(法政大)      5位 新庄剛志(西日本短大付高)
大洋    1位 佐々木主浩(東北福祉大)

近鉄    1位 野茂英雄(新日鉄堺)  3位 石井浩郎(プリンスホテル)
オリックス 1位 佐藤和弘(熊谷組)
西武    1位 潮崎哲也(松下電器)
ダイエー  1位 元木大介(上宮高)
日本ハム  2位 岩本勉(阪南大高)
ロッテ    1位 小宮山悟(早稲田大)

1位指名された選手はほぼ全員が一軍で主力選手に成長し、またこの中からメジャーリーガーが野茂、新庄、佐々木、小宮山と4人も誕生しているというのも凄いですね。翌年の新人王はセが与田さん、パが野茂と、ともにこのドラフトの指名選手でした。


2013年12月28日土曜日

与田剛さんと日本のクローザー

皆さんこんにちは。
本日の与田剛さんファンの気まぐれブログは、試合の最後を締めくくるピッチャー、「クローザー」について。とくに日本のプロ野球のクローザーについてひもといてみます。

与田剛さんは1990年に中日ドラゴンズでデビュー。初登板で150km/hを超える豪速球を投げて見る者の度肝を抜き、ちょうどそのとき正クローザーの郭源治が故障中だったこともあり、与田さんはすんなりそのポジションについたのでした。

もともと、日本のプロ野球において先発投手は最後まで投げきるものとされていました。しかし酷使された投手の故障が相次いだこともあり、1960年代から一試合を複数の投手でまかなう戦術が取り入れられます。とはいえ、まだまだ先発担当のエースが他の投手の先発試合の最後を締めくくることも多くありました。

1974年からはセーブポイントが公式記録として採用され、南海ホークスの佐藤道郎、中日の鈴木孝政といったクローザーが登場。少し遅れて中日に出てきた小松辰雄投手は、後年先発専業になりましたがデビュー当時はクローザーでした。この頃、スピードガンによる球速表示が始まり、150km/hを超える小松の速球は与田剛さん同様に注目を集めたのでした。

日本でクローザーの役割が最初に注目を集めたのは、「江夏の21球」で知られる1979年の日本シリーズでの江夏豊の投球でしょう。広島カープが初の日本一を決めた要因の一つに、江夏という絶対的なクローザーがいたことは間違いありません。この年、江夏はクローザーとしてプロ野球で初めてMVPを獲得。その後、与田剛さんの先輩の郭、メジャーでも活躍した大魔神こと佐々木主浩といったクローザーがMVPに輝いています。

2003年には日本プロ野球名球会のルールが改定され、通算250セーブ投手が入会できることになりました。これにより佐々木と元ヤクルトの高津臣吾、中日の岩瀬仁紀が入会しています。岩瀬は現在の日本の最多セーブ記録保持者ですが、中日は与田剛さん、鈴木、小松、郭、宣銅烈といった記憶に残る名クローザーを多数輩出しています。これには何か理由があるのでしょうか。与田さんに聞いてみたいですね。



2013年12月10日火曜日

与田剛さんと1990年のプロ野球

皆さんこんにちは。今回は与田剛さんがデビューし、新人王を獲得した1990年のプロ野球を振り返ります。1990年といえば平成2年。まだ新しい元号になって間もない年でしたが、日本のプロ野球は様々な出来事がありました。

まずいきなり開幕戦の巨人対ヤクルトでひと悶着。8回表、3対1で2点差を追う巨人は1アウト2塁で打席に篠塚利夫。篠塚がヤクルト内藤尚行投手からライトスタンドに放った打球はポール際の当たりでしたが、一塁塁審はホームランと判定します。「ファウルだろう!」というヤクルト野村監督の猛抗議にも判定は覆らず。これで同点に追いついた巨人は延長で勝利し、篠塚の一打は「疑惑のホームラン」としてヤクルトファンの脳裏に刻みこまれたのでした。(後に篠塚自らが「ファウルでしたね」と告白しています)。

いっぽう開幕戦では与田剛さんがデビュー。150km/h超の速球で三振を奪い、観客の度胆を抜きます。本来ならこの年の新人投手は与田さんが一番注目を集めたはずですが、残念ながらそうではありませんでした。何しろ、あの野茂英雄投手が同じ年にデビューしたのです。

野茂は開幕から先発ローテーション入りしていたものの勝ち星には恵まれず、初勝利は4月29日。しかし、初勝利の試合で野茂は17個の三振を奪い、当時のプロ野球タイ記録をマークするという怪物ぶりを見せつけます。

セントラル与田、パシフィック野茂。この二人の新人離れしたルーキーは、オールスターで両軍の先発投手として激突します。立ち上がりこそ両投手とも好調でしたが、与田さんは西武の清原和博に、野茂は中日の落合博満に、ともにホームランを浴びて試合は打撃戦に。結果、12対7でパシフィックが勝利を収めました。

東京ドームで天井スピーカーを直撃する「認定本塁打」が生まれたのもこの年。近鉄のラルフ・ブライアントが日本ハム戦で記録します。

8月2日の近鉄対オリックス戦は、大阪球場で行われた最後のプロ野球公式戦となりました。近鉄は2005年に球団が消滅、オリックスは翌年ホームグラウンドをグリーンスタジアム神戸に移転します。南海ホークスの本拠地として長年親しまれた大阪球場は、その後住宅展示場になり、現在ではショッピングセンターとオフィスビルになっています。

ペナントレースはあっさり決着がついてしまいました。セントラルは88勝42敗、2位広島に22ゲーム差と、他チームを完全に圧倒した巨人が9月8日に史上最速のリーグ優勝を決めます。パシフィックも西武が2位に12ゲーム差をつけて優勝。強豪同士の熱戦が期待された日本シリーズは、西武が4連勝であっけなく優勝してしまいました。与田剛さんの中日は62勝68敗で4位。与田さんは4勝31セーブを記録していたので、中日の62勝中半分以上の35勝に貢献したことになります。

セの新人王は文句なしで与田剛さん。とはいえ、やはりこの年のプロ野球は野茂に始まり野茂に終わったと言っても良いくらい、野茂一色でした。野茂が獲得したタイトルは、まず投手記録でパ・リーグの最多勝(18勝)、最多奪三振(287個)、最高勝率(.692)、そして投票によって選ばれるリーグ表彰でMVP、新人王、ベストナインまでさらっていってしまったのでした。

この年、与田さん、野茂というニュースターに主役の座を譲るように、ロッテの村田兆治投手が現役引退。引退試合では若林忠志(1949年)以来2人目となる40歳代での2桁勝利を記録しています。


2013年12月1日日曜日

与田剛さんの現役時代

今はメジャーリーグ放送の解説やWBC日本代表チームの投手コーチを務めている与田剛さん。40代以上のプロ野球ファンなら知らない人はいない存在ですが、最近の若い方はあまりご存じではないかも知れません。検索すると「与田剛の現役時代が凄い」なんていう中年ファンなら苦笑モノの掲示板のスレッドが出てきたりして、まだ与田剛さんのダイナミックな投球が脳裏に焼き付いているファンとしては、「昔話」扱いされるのは悲しい限り。そこで、われらが与田剛さんについて知っていただきたいと思い、この場を借りてご紹介します。

まず、与田剛さんは1989年に中日ドラゴンズからドラフト1位指名を受けてNTT東京からプロ入り(もう24年も前のことなんですね・・・)。翌年の開幕戦でいきなりリリーフで初登板、相手は横浜(現DeNA)。延長11回表ノーアウト一、三塁というピンチを、与田剛さんは150km/hの剛速球で2三振を奪い無失点で切り抜けます。このときまでさほど注目されていなかったものの、与田さんはたった一日でその名を轟かせたのでした。

これを機に中日の星野監督は与田さんをクローザー(当時日本でははそんな言葉は使ってなかったかな?)に指名。与田さんも期待に応え続け、6月に早くも二桁セーブに到達。当然のようにオールスターにもファン投票で選ばれました。この年、最終的に与田剛さんがあげたセーブは31。新人最多どころかこの年の最多セーブ獲得者となり、与田さんは新人王とファイアマン賞を同時受賞したのでした。

ただ、今でこそクローザーは最後の1イニングを締めくくるだけですが、当時は早ければ7回から投げることもあり、そのせいもあって登板過多のクローザーは故障しがちでした。与田剛さんも例外ではなく、50試合に投げて投球回数は88イニング。1試合平均1.7イニングですから、「イニングまたぎ」は当たり前のようにあったことが分かります。結果、肩や肘を壊してしまい、翌年は29試合の登板でわずか2セーブ。翌年に23セーブをあげて復活を印象付けますが、その後は故障のせいで満足な投球ができず、1996年シーズン中に千葉ロッテにトレード。千葉ロッテは一軍登板のないまま自由契約となり、その後日本ハム、阪神と移籍しますが、もう新人時代の輝きは戻ってきませんでした。

与田剛さんが公式戦で記録した157km/hは、その後、伊良部秀輝投手らに更新されるまで日本人最速の記録でした。今ではダルビッシュ有投手や田中将大投手らがごく普通に150km/hの速球を投げますが、90年代前半では異次元のスピードと言ってもいいくらい、与田剛さんの球は圧倒的な速さでした。わずか一年、風のように駆け抜けたキャリアでしたが、40歳以上のプロ野球ファンならば、中日ファンでなくても全員が与田剛さんの名前を憶えているはずです。そのくらい、与田剛さんの与えた日本プロ野球におけるインパクトはとてつもなかったのです。





2013年10月31日木曜日

2013年ワールドシリーズ4~6戦と与田剛

皆さんこんにちは。本日の与田剛ファンの気まぐれブログは、ボストン・レッドソックス対セントルイス・カージナルスのワールドシリーズ第4~6戦のダイジェストです。対戦成績は2勝1敗でカージナルスが1勝リードして第4戦を迎えます。

第4戦

〇レッドソックス:2
●カージナルス:4

先発はカージナルスがリン、レッドソックスがバックホルツ。カージナルスが1点先制しますが、レッドソックスは5回に同点、6回にゴームズが3ランホームランを放って勝ち越し。この試合に負けると後がなくなるレッドソックスはリリーフに第二戦で先発したラッキー、レギュラーシーズンは先発で10勝をあげているドゥブロントを起用する総力戦となりました。

第二戦でツーベースを打たれたホリデーを今回は内野ゴロに抑えた田沢の力投もあり、4対2でリードを保って最終回に突入したレッドソックスは、上原をマウンドに送ります。上原はクレイグにヒットを打たれ、代走にウォン。二死まで漕ぎ着けますが打席にはカージナルスで今ポストシーズンもっとも頼れる打者ベルトラン。観衆は息を飲んで上原の投球を待ちますが、なんと素早い牽制球でウォンはタッチアウト。前日の「サヨナラ走塁妨害」に続いてこの日は牽制アウトというあっけない幕切れ、これで対戦成績はタイになり、カージナルスの地元での胴上げはなくなりました。

第5戦

〇レッドソックス:3
●カージナルス:1

再びレスター、ウィンライトのエース対決。この試合はレスターの左腕が冴え、7回3分の2を1失点。対するウェインライトは8安打を浴びながら7回まで3点に抑え、最低限の先発の役割は果たしましたが、相手の調子が良すぎました。この日のレッドソックスは中継ぎを使わず8回二死から上原を投入。上原はきっちり抑えてセーブをあげ、ポストシーズン7セーブ目。史上最多タイとなりました。

第6戦

●カージナルス:1
〇レッドソックス:6

レッドソックスが王手をかけて、舞台は再びボストンへ。1敗してもまだ後がある余裕と地元という強み。大方の予想はレッドソックスの優勝でしたが、過去レッドソックスはワールドシリーズで3勝2敗で王手をかけたことが4度あり、そのうち2回は優勝を逃したというデータ、またカージナルスの先発はラッキーボーイのワカだけに、この試合をレッドソックスが落とせばそのままの勢いでカージナルスが有利、という予想もありました。

しかし、蓋を開けてみるとさすがの強心臓のワカもこの試合では精彩を欠き、ビクトリーノに満塁で走者一掃ツーベースを打たれるなど4回途中6失点で降板。7回にカージナルスは二死満塁で四番クレイグというチャンスをつかみますが、ここは田沢が一塁ゴロに切って取り難を逃れました。実質的にはこれで試合終了になったと言っても良いでしょう。5点差はあったものの9回はやはり上原が登板。最後の打者マット・カーペンターを得意のスプリッターで三振に取り、レッドソックスの6年ぶり8度目の優勝が決まりました。

前回の地元でのワールドシリーズ優勝は1918年といいますから、ボストン市民にしてみれば一生に一度の大イベント。ネット裏のシートが240万円で売買されたというニュースもありました。今年は春先のボストンマラソンで爆弾テロがあるなど、ボストン市民にとっては悲しみに打ちひしがれた年でもありましたが、そこに活力を与えたのがレッドソックスでした。優勝の瞬間、ボストン中がお祭り騒ぎとなり、上原が最後の打者を三振に取った瞬間についていたテレビの86%がこの試合の中継だったそうです。与田剛さんはどのような感想を持たれたでしょうか。



2013年10月28日月曜日

2013年ワールドシリーズ1~3戦と与田剛

皆さんこんにちは。本日の与田剛ファンの気まぐれブログは、ボストン・レッドソックス対セントルイス・カージナルスのワールドシリーズ第1~3戦のダイジェスト。1、2戦の舞台はレッドソックスの本拠地、ボストンのフェンウェイ・パーク、3戦はセントルイスのブッシュ・スタジアムです。

第1戦

●カージナルス:1
〇レッドソックス:8

レッドソックスがレスター、カージナルスがウェインライトと、ともにエースを立てた第1戦。投手戦が予想されましたが、意外にも大差でレッドソックスが勝利しました。堅守で定評のあるカージナルスが3失策と乱れ、打の要ベルトランが満塁本塁打をもぎ取る超ファインプレーを見せたものの外野フェンスにぶつかった衝撃で2回に退場。このままスイープもあるのでは?と思わせるほど一方的な試合でした。

第2戦

〇カージナルス:4
●レッドソックス:2

第2戦のカージナルスの先発は、今ポストシーズンで一気に名をあげた22歳のマイケル・ワカ。ディビジョンシリーズではパイレーツを1本塁打のみに抑える好投、リーグ優勝シリーズではドジャース相手に2度先発し1点も失うことなく2勝をあげ、シリーズMVPにも選ばれました。ワカはこの試合でも才能を如何なく発揮、6回に2点を奪われて一度は逆転を許しますが、7回に自軍が逆点して勝ち投手。ここでは運も味方しました。負け試合ではありましたが上原が登板、打者を3人で切って取り上々のシリーズ初登板となりました。

第3戦

●レッドソックス:4
〇カージナルス:5

舞台をセントルイスに移して迎えた第3戦、先発はレッドソックスがピービー、カージナルスがケリー。カージナルスが先制するものの、レッドソックスが追いつき、また突き放して追いつかれるという熱戦となりました。しかし、その幕切れは誰もが予想しなかった形で訪れます。

9回裏カージナルスの攻撃。4対4の同点、一死二三塁の絶体絶命のピンチでマウンドにはレッドソックスのクローザー上原。外角高めの球を打ち返した打者ジェイの打球は上原の足元を抜けるかと思われましたが、これを二塁手のペドロイアが飛びついて止めるファインプレー。すぐさま本塁に送球して三塁ランナーはタッチアウト。この間に二塁ランナー、クレイグが三塁に向かったのを見てキャッチャー、サルタラマキアは三塁に送球。しかしこれが逸れてボールはファウルグラウンドを転がり、クレイグは本塁へ。ボールがレフトから返ってきて本塁でのクロスプレーは微妙なタイミングでしたが、審判はセーフを宣告します。

騒然とするレッドソックス内野陣を前に、審判は本塁でのプレーの前に走塁妨害があったことを主張しました。三塁手のミドルブルックスは逸れた送球を取ろうと左に倒れますが、三塁に滑り込んできたクレイグが交錯して立ち上がるのが一瞬遅れてしまったのです(ミドルブルックスが足を上げて引っかけようとしているようにも見えます)。なんとも後味の悪い幕切れでしたが、大方のファンは審判を支持したようでした。もちろんワールドシリーズが走塁妨害でサヨナラ試合になったのは史上初めてのこと。これでカージナルスは2勝1敗となり対戦成績を逆転。与田剛さんならどのように解説されたでしょうか。