2013年12月28日土曜日

与田剛さんと日本のクローザー

皆さんこんにちは。
本日の与田剛さんファンの気まぐれブログは、試合の最後を締めくくるピッチャー、「クローザー」について。とくに日本のプロ野球のクローザーについてひもといてみます。

与田剛さんは1990年に中日ドラゴンズでデビュー。初登板で150km/hを超える豪速球を投げて見る者の度肝を抜き、ちょうどそのとき正クローザーの郭源治が故障中だったこともあり、与田さんはすんなりそのポジションについたのでした。

もともと、日本のプロ野球において先発投手は最後まで投げきるものとされていました。しかし酷使された投手の故障が相次いだこともあり、1960年代から一試合を複数の投手でまかなう戦術が取り入れられます。とはいえ、まだまだ先発担当のエースが他の投手の先発試合の最後を締めくくることも多くありました。

1974年からはセーブポイントが公式記録として採用され、南海ホークスの佐藤道郎、中日の鈴木孝政といったクローザーが登場。少し遅れて中日に出てきた小松辰雄投手は、後年先発専業になりましたがデビュー当時はクローザーでした。この頃、スピードガンによる球速表示が始まり、150km/hを超える小松の速球は与田剛さん同様に注目を集めたのでした。

日本でクローザーの役割が最初に注目を集めたのは、「江夏の21球」で知られる1979年の日本シリーズでの江夏豊の投球でしょう。広島カープが初の日本一を決めた要因の一つに、江夏という絶対的なクローザーがいたことは間違いありません。この年、江夏はクローザーとしてプロ野球で初めてMVPを獲得。その後、与田剛さんの先輩の郭、メジャーでも活躍した大魔神こと佐々木主浩といったクローザーがMVPに輝いています。

2003年には日本プロ野球名球会のルールが改定され、通算250セーブ投手が入会できることになりました。これにより佐々木と元ヤクルトの高津臣吾、中日の岩瀬仁紀が入会しています。岩瀬は現在の日本の最多セーブ記録保持者ですが、中日は与田剛さん、鈴木、小松、郭、宣銅烈といった記憶に残る名クローザーを多数輩出しています。これには何か理由があるのでしょうか。与田さんに聞いてみたいですね。



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